SHIINBLOG

プロジェクトADHD ノビ子の挑戦

ADHDでも社会で上手に生きるために色々なアイデアをひたすら試すブログ。有益な情報交換の場になればいいなと思います。昨日よりもうまくいく1日に!http://www.adhd-world.com ご連絡はこちらまで!nobinobiko2@gmail.com

普通ときどき社会不適合者

なにかで読んだ文章。ADHDの一生は何の中毒になるかで決まる。

その通りと思う。負もあれば正もあるかと思うが。

私は仕事(おもにコーディング)とお酒、なんとなく自覚があるけど。

結局一見正に見える仕事にしろ度を越すので長いめでみたら負になるだろう。

実際にやりすぎて休職にまでなったけど

それでもなお中毒のない人生はつまらなく感じて選ばないだろうと思う。

頭ではわかってるのに。

最初は快適でもすぐに飽きてしまう未来が見える。

なにもかも退屈に感じてまたいつもの虚無のループにハマってしまうだけだ。

そこで何の中毒もなかったらいよいよ抜け出す術がない。

見えるのはそんな未来。社会的にみたら「普通」にしてても私は生きていない。

 

「普通の人、健常者」側に寄っていなければ家族や仕事を失ってしまう気がするから

いつも見習って模倣してそれらしく過ごすことだって忘れない。

生きていて葛藤がなかったときが一瞬たりともない。

 

社会的に問題なく生きることと自分の本質(衝動性、中毒性)とのバランスの

折り合いがつかなくなることが度々あって

そういう時に度々、社会不適合者になってしまう。普通ときどき社会不適合。

 

曖昧が苦手は開き直ったら圧倒的長所でしかない

i曖昧が苦手。

これ自分は嫌ってるんだけど、大いに役立った。役立ってる。

曖昧が苦手ってADHDあるあるだし悪者されがちだけど違うと思う。

曖昧が苦手は¨仕事¨では役立つ以外の何ものでもない。

 

曖昧が苦手だから些細な事も訊きたい←いつもの

定義とか具体的数字、方法やどこまでの範囲、いつまでとかいつも知りたい。

たとえこんなこと訊いていいのかな?って思う事や

こんなこと訊いたら「はぁ?」って思われるかなということでも。

多分疑問に思う点は人と少しずれているんだろう。

わからない、はっきりしない、答えが出るのは先かもしれない。

そういった落ち着かない状態が苦手だからこそ訊いてしまう。

 

でも、この特性でよかったことが2つ。

まず「私はADHDだから曖昧は無理」って自覚したことで

⇒開き直るから、わからないことは普通に訊く

⇒仕事がはやく終わる

⇒気持ちすっきりしてる&仕事はやいねと言われる

(待てないだけなんだけどねぇ)

そういったことが続くうちに

自分の特性(待てない、グレーは放置できない)はあまり気にならなくなっていった。

ADHDだからこそ自分はどんな事も間違えないで出来ているんだよねと寧ろ信じてる。

仕事の世界ってそもそも具体的日付とか数字とかデータが必要な場面多めな雰囲気

なんだから別にいいかなーと。

 

そしてもうひとつは。

そういう一見些細な質問とか

ある種空気の読めていないかもしれない質問

レベルが低いかもしれない質問を

普段の場面や会議に無神経にばんばんしてしてしまうことで

周りの人がなぜかどんどん質問し始めた。

もしかすると、こういう存在(敷居を下げる)が別に1人くらい

いてもいいだろと感じた。

そう思ったら、楽になった。

 

だから

「曖昧は苦手」は個人的に強みと思ってる。

ちょっとした曖昧な所も確認するからこそ「逆に正確な仕事ができる」んだし

ずれてる質問することは誰もが発言しやすい空気を作るサーキュレータに

なれるんでは?と信じている!

 

曖昧さを苦手とする特性(なぜなぜなんで?)は人とは違う視点を

生み出すかもしれないし

それよりなにより仕事してると成果出すとかよりもずっと前の段階で

「あの人だったら間違えないよね」っていう

信頼感を出すのそもそも大事っていう説あるある。

ちょっとずれた発言は人と違っていてもいいんだという空気を生み出せる

ムードメーカー的(?)一面 (人を傷つける内容でなければ、、)

 

ここまで書いててやっぱり思う。

曖昧が苦手って圧倒的信頼勝ち取る要素以外の何物でもないよね、と。

職務経歴書に今度からむしろ書こうかなと思ってる次第。

電気係

あさ、きょうしつにいくとでんきがついていた。

 

わたし、つけなおしたよ。

おかしかったよ。

 

これはある子供が書いた詩。

この子供はもしかすると今でもこの詩を書いた時の

気持ちを胸に抱き続けているかもしれない。

自分が世界に貢献していると感じられる事や

誰かに必要とされることなんかを。。

それが生きていく上で非常に大きな

エネルギーとなる事をなんとなく知っていて。

 

その「世界」は大規模である必要は多分ない。

例えば、この子供にとっての世界が

「自分の教室」だったように。

「世界」はその人にとっての定義で決まるのかもしれない。

そんな所にロマンと少しの恐れを抱く。

 

私は求めている。

普通の人より出来ない事が

たくさんあるとしても変わらずに求める。

 

誰かに必要とされ自分という存在が

必要だと認められる瞬間を求める。

頭に浮かぶ「世界」をより良くしたいと願い試行錯誤し続ける。

配慮されるだけの自分では世界を描く自由に欠ける。

そんなのはつまらない。

 

私は必要とされたい。

配慮なんかされるより何倍も。

 

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